読むことと、書くこと

シドニーで暮らしているころ、私は日本語で書かれた本に飢えていました。それまでも、小さなころからずっと本を読むのが好きだったけれど、あんなにも、”渇望”という感じで本を求めたのは初めてだったかもしれません。

日本から持参した本は当然のことながら何度も読み返し、日々新たな本を求めていたのですが、何せ海外でまともに日本語書籍を買おうとすると、かなり高い!!

当時、シドニーの中心であるTownhall駅の上に紀伊国屋書店がOPENしたのですが、日本円で400~500円程度の文庫本でも、15~20ドル($AUD)もするのです。マクドナルドでセットを食べるのに5~7ドル程度ですから、それに比べるといかに高いかが良くわかると思います。(ちなみに、当時の私のレストランでもアルバイト時給は8ドルでした。)

かの三輪明弘さんは、まだ若くて貧しかったころ、ご飯を1食抜かして、そのお金で薔薇を一輪買って眺めていたのだとか・・・。彼(彼女?)の美意識がうかがえるエピソードではありますが、凡人の私には、1食抜いて本1冊を買うのは、かなりのむずかしいことでした。しかも、1食どころか、2~3食抜かないと買えない値段でしたし・・・。

貧乏ワーホリメーカーだった私は、バックパッカーの集う安宿で、よく本の交換をしました。宿で知り合った日本人旅行者がいたら、お互いの手持ちの本を交換するのです。そうやって、「わらしべ長者」のように、出会う人出会う人と本の交換をしているうちに、ジャンルを問わず、もう日本語なら何でもウェルカム状態の雑読派になっていました。

直接人と話して交換するのではく、「Books Exchange」(本交換)の棚が設置してある宿もときどき見かけました。「この本棚の本でお好きなものがあったら、自由に持っていって結構ですよ~。その代わり、読み終わった手持ちの本を一冊置いていってくださいね。」というシステムです。

そこに置いてある本は、いずれもかなりの年季もので、たくさんの人の手から手に渡って読まれたのだろうなぁ、というのがひと目でわかります。本も、本として生まれてきて、これだけすりきれるまで読まれて、さぞや満足なんじゃないかと思うほど。残念ながら、英語の本が多かったのですが、たま~に日本語の本にお目にかかると、それがどんな内容のものであれ、すごーく嬉しかったです。
(※ただ、タイの小さな島のバンガローに、「高校物理Ⅰ」の参考書があったときは、さすがにどうしようかなと思いましたが ^^;)

英語の本も苦労なく、せめて辞書を使わずに読み進められるくらいだったら、自分の世界はもっと広がっていたのだと思いますが、いかんせん、語学力が足らず、英語環境に身をおきながら、日本語の活字を求めていました。

長距離バスの停留所で。安宿のスプリングの飛び出たベッドの上で。曇り空の砂浜で。公園の芝生で。とにかくたくさん本を読んだし、手紙を書いていました。

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読むという行為、そして書くという行為が、私にとってリアルに必要なものになったのは、こうした経験が元になっているのかもしれません。文章に対する”飢え”や”渇望”の経験がなかったら、ここまで読むことと書くことに、興味や執着を持てたかどうかわかりません。

文章を書くことは一種のカタルシスだという人もいるけれど、確かに私は、こうして文章を書き綴ることで、自分自身のバランスを取っているのではないかと感じています。