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簡単なものではあるけれど、料理ブログを運営していたり、お取り寄せレビューサイト「TORICO」でレビューを書かせてもらっている私。文章で食べものの描写をする機会はかなり多いはずなのに、いまだにその食べ物の匂いとか、舌触り、そして雰囲気といったものを伝える言葉を捜すのに、ウンウンと唸ってばかりです。わかりやすく適切な文章は書けても、なんというか、その食べ物のもつ”生々しさ”のようなものを、きちんと言葉の向こうに浮かび上がらせることは本当に難しい。読んでいる人に”それ食べたい!”と思ってもらえる文章を書きたいものだ・・・いつもそう感じています。
そんな私が、いつも読むたびにうっとりとしてしまう食べ物の描写を書く人がいます。
といってもブログの話ではなく、小説の中に出てくる文章なのですが、森茉莉さんという女性の書く文章は、素晴らしく魅力的。やや耽美過ぎるきらいはあるものの、ごく当たり前の食べ物を、こんなに美しい言葉で綴れる人も珍しいでしょう。
(※森茉莉:1903-1987 森鴎外と二度目の妻志げの長女、作家)
参考までに少し抜き書きをしてみますと・・・
”ただただ料理を造ることが、不思議に楽しい。
銀色の鍋の中に、透明な湯が泡をたてて渦巻いていて、その中に真白な卵が浮き沈みしている。それが楽しい。フライパンを片手に、右手でバタを落し、卵を割り入れる。小間して箸で軽く掻きまぜ、形を造えて行く。卵がみるみる楽しい黄色の、ふわふわしたオムレツになって行く。それが楽しい。
私のお得意は、オムレット・ナチュウル(何も入らないオムレツ)またはオムレット・オ・フィーヌ・ゼルブ(香草入り)である。新しい俎(またいた)で、パセリを刻み、洗ったあとが、薄緑色に染まっているのも、楽しい、という徹底的料理好きである。”
なんて文章を読むと、ふわふわの黄色のオムレツが食べたくて仕方なくなりますし、
”左手に、かすかに牛酪(バタ)の煙を立て始めたフライパンを持ち、右手で紅茶茶わんのふちにぶつけて割りいれた卵を一個ずつ流し込む。
黄色みをおびた透明な白身が見るうちに半透明になり、縁のほうから白く変り、乾いてくるころには紅みがかった丸い卵黄が二つ、とろりとした内容を想像させて、盛り上がってくるころ、蓋をして火を弱めると、二つの卵黄は薄い白身の膜を被って、おぼろに紅い。裏はいくらか焦げ目のつくようにするのである。でき上がると、振った振らないかほど、食塩と胡椒とを、卵黄を中心に振る。私は、食卓の上に運んできた、周りが紅みのある卵の殻に少しロオズ色のはいった色をした厚みのある西洋皿にのた目玉焼きに向かうと、どんな用事が突発しても、醤油をひっくりかえしたとか、電話のほかは無視して、熱い内に卵を口に入れるという義務を果たすことにしている。
さじをとり上げると私は卵黄を傷つけないようにじょうずに切り抜き、少量の醤油をかけ、卵黄をすくって丸ごと口に運ぶ。あんまり上品なテエブル・マナアではないから、よその家ではやらないし、料理店でも、行きつけの、それも近所の店でしかそんなことはやらない。”
なんてくだりを読むと、無性に目玉焼きが食べたくなってしまいます。
こういう文章が書けるのって、本当に素晴らしい才能ですよね。
ちょうど本棚にしまってあった森茉莉さんの著書「私の美の世界」を読み返したばかりの私は、すっかり影響されて、国産レモンの青い果実を買ってきて薄切りにし、紅茶に浮かべてみたり、蜂蜜と砂糖で煮たものを刻んでパンケーキの生地に混ぜ込んで焼いてみたり、ちょっぴりエセ森茉莉風の休日を過ごしています。
彼女のような描写はできないけれど、いつでも自分なりの美意識は持っていたいもの。それは、日常生活においても、書く文章においても、同じことだと思っています。
しっかりと自分らしく地に足のついた生活を営み、さまざまな感情を味わっていくことが、
より魅力的な文章・人に伝わる文章を書けるようになるための王道ではないでしょうか。
前に知人に言われた言葉なのですが、「どう書くか」は、「どう生きるか」。
そう考えると、こんな素晴らしい環境で、たくさんの喜怒哀楽を味わっているであろう
彼女の書く文章が、あれだけ魅力的なのも納得です。
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